こんにちは!
今日は、Official髭男dismの「アポトーシス」を徹底的に考察し、歌詞の意味を解説します!
思わずほろりと涙が落ちてしまいそうになる本楽曲。
歌詞の意味を解説し、「なぜこの楽曲が魅力的なのか」「なぜ聴く人を感動させるのか」など、聴き手にもたらす効果を考えていきます!
避けられぬ「死」を語る楽曲
人間にとって絶対的に避けられない「死」について語られる本楽曲。楽曲に登場する人物は、「私」と「ダーリン(あなた)」の2人です。
彼女らは年老いた老夫婦であることが、楽曲中の表現からわかります。
年老いた彼女たちにとって、迫りくる「死」は強く実感するものであり、そんな中「私」が、少しずつ近づく「死」について語ったのが本楽曲です。
一方で、「死」を実感するからこそ日々を大切に生きようとする「私」の姿は、聴く人をなんとも温かい気持ちにします。
切なくも、温かい。本楽曲には、そんな魅力があふれています。
タイトル「アポトーシス」の意味
タイトルにある「アポトーシス」とは、もともと生物学的な用語の一つとして用いられています。
「アポトーシス」とは、生物を構成する細胞の死に方の一種で、あらかじめ予定された死のことを指します。
対義語である「ネクローシス」が外的な要因によって引き起こされるのに対し、「アポトーシス」は生物が生きていくうえで、積極的に細胞の交換を行うことを指します。
本楽曲で歌われる「死」という事象は、人にとって避けられないものです。
そんな「死」のことを、「アポトーシス」という現象に例えて、本楽曲のタイトルとしたのだと考えられます。
歌詞の意味
1番
訪れるべき時が来たもしその時は
Official髭男dism「アポトーシス」-作成:藤原聡
悲しまないでダーリン
こんな話をそろそろ
しなくちゃならないほど素敵になったね
恐るるに足る将来にあんまりひどく
怯えないでダーリン
そう言った私の方こそ
怖くてたまらないけど
ここでは、確実に近づく「死」について、パートナーである「ダーリン」に語り掛ける「私」の姿が描かれています。
”訪れるべき時”とは、「死による2人の別れ」を指します。
2人のうち1人は、ほぼ確実にもう片方を残してこの世を去ることになります。同時に死が訪れるなんて、難しいですよね。
もしその時が来ても、”悲しまないで”と「私」は語り掛けます。
”こんな話をそろそろ
しなくちゃならないほど素敵になったね”
という歌詞からも、2人の死が近づいていることがわかります。
”素敵になった”という表現からは、2人がここまで生きてきた人生が幸せであったことを示しているように思います。
同時に、年老いてしまったことに対する皮肉のような表現でもあります。
”恐るるに足る将来にあんまりひどく
怯えないでダーリン”
”恐るるに足る”はあまり使わない言い回しですが、あえてこのようにすることで、聴き手により「死」に対する恐怖が伝わってきます。
”怯えないで”と「ダーリン」に伝える「私」ですが、自分も実は怖いことを明かします。
当然と言えば当然ですよね。「死」はやはり、多くの人が避けられないと自覚しつつも、怖いものです。
そんな恐怖に向き合おうとする2人の姿がここでは描かれています。
さよならはいつしか
Official髭男dism「アポトーシス」-作成:藤原聡
確実に近づく
落ち葉も空と向き合う蝉も
私達と同じ世界を
同じ様に生きたの
ここでは、「死」の決して避けられないという性質に目が向けられています。
”さよならはいつしか 確実に近づく”という歌詞からも、「死」からは逃れられないという気持ちが伝わります。
”落ち葉も空と向き合う蝉も
私達と同じ世界を
同じ様に生きたの”
ここでは、「落ち葉」や「蝉」など、身近なもので「死」を感じるものを例に挙げ、いずれは自分たちも同じように死ぬことを表現しています。
それらも私達と同じ様にこの世を生き、死んでいったのです。
そんな様子に自分たちにも来るべき将来を重ね、想いを馳せる「私」の姿が目に浮かびます。
今宵も鐘が鳴る方角は
Official髭男dism「アポトーシス」-作成:藤原聡
お祭りの後みたいに鎮まり返ってる
なるべく遠くへ行こうと 私達は焦る
似た者同士の街の中
空っぽ同士の胸で今
鼓動を強めて未来へとひた走る
別れの時など 目の端にも映らないように
そう言い聞かすように
ここでは、避けられないとわかっている「死」から懸命に遠ざかり、日々を生きようとする「私」の姿が描かれています。
”今宵も鐘が鳴る方角は
お祭りの後みたいに鎮まり返ってる”
ここで言う鐘とは、お寺の鐘を指す言葉であると考えられます。
本楽曲において、お寺から連想するものと言えば、やはり「死」のことでしょう。
だからこそ、その方角は”お祭りの後みたいに鎮まり返ってる”という表現が用いられたと考えられます。「お祭り」という表現も、お寺を連想させますね。
また、「鎮まり返ってる」という表現は、通常「御霊(みたま)が鎮まり返る」のように使う言葉です。
シーンとした、という意味の時に使うのは「静まり帰る」ですね。こういった細かいところにも、「死」を連想させる工夫がされています。
”鼓動を強めて未来へとひた走る
別れの時など 目の端にも映らないように”
そして、「死」から懸命に逃れようとする「私達」は似た者同士で、空っぽな存在であると「私」は言います。
そして、1秒でも「死」から逃れようと、「私達」は鼓動を強めて一生懸命走ります。
常にちらつく”別れの時”を見なくて済むように、懸命に生きる「私達」の様子が見て取れます。
2番
いつの間にやらどこかが 絶えず痛み出し
Official髭男dism「アポトーシス」-作成:藤原聡
うんざりしてしまうね
ロウソクの増えたケーキも
食べ切れる量は減り続けるし
吹き消した後で包まれた この幸せが
いつか終わってしまうなんて
あんまりだって誰彼に
泣き縋りそうになるけど
ここでは、年を取ったことで感じる「死」の実感について語られています。
年を取るごとに身体の節々が痛み、誕生日ケーキのロウソクは増える一方です。食も細くなり、食べられる量も減っています。
”吹き消した後で包まれた この幸せが”
という歌詞から、上記のように年を取ること自体が辛いことの根本ではないことがわかります。
残った誕生日ケーキを包むこの時間は、それはそれでしっかり幸せなのです。
やはり、身体が送る死へと近づいているサインを感じることで、”いつか終わってしまうなんて”に象徴されるような「死への実感」が湧いてくることが、「私」にとって辛いことがわかります。
そして、そんな辛さのあまり、「私」は”泣き縋りそうになる”のです。
さよならはいつしか
Official髭男dism「アポトーシス」-作成:藤原聡
確実に近づく
校舎も駅も古びれてゆく
私達も同じことだって
ちゃんと分かっちゃいるよ
ここでも、1番と同じように、建物が古びていく様子に、自分たちの「死」を重ねています。
1番では、「落ち葉」「蝉」という短命なものが例として出されていました。
一方ここでは、建物という寿命の長いものが例えとして用いられています。
これによって、この世のもの全てに「死」は平等に訪れることを表現しているのではないでしょうか。
”ちゃんと分かっちゃいるよ”という歌詞からは、そういった死の平等性を理解しているものの、やはり怖いと思ってしまう「私」の気持ちを感じ取ることができます。
今宵も明かりのないリビングで
Official髭男dism「アポトーシス」-作成:藤原聡
思い出と不意に出くわしやるせなさを背負い
水を飲み干しシンクに
グラスが横たわる
空っぽ同士の胸の中
眠れぬ同士の部屋で今
水滴の付いた命が今日を終える
解説もないまま
次のページをめくる世界に
戸惑いながら
ここでは、「死」に対する恐怖と向き合いながら日々を生きる「私」の姿が描かれています。
”今宵も明かりのないリビングで
思い出と不意に出くわし
やるせなさを背負い”
「私」はもう電気を消したリビングで水を飲む、というふとした時に昔のことを思い出し、近づく「死」を実感します。
”グラスが横たわる”という表現もどこか切なく、本楽曲の雰囲気を作る役割をしています。
そして、そんなやるせなさに包まれた「私」は、なかなか眠りにつくことができません。
もしかしたら1番冒頭で歌われた2人の会話は、眠れない夜のベットの中で語られていたのかもしれません。
”水滴の付いた命が今日を終える”という歌詞は、”グラスが横たわる”と対応しています。今日という日が終わり、また一歩「死」に近づいたという実感をわかせる表現になっています。
”解説もないまま
次のページをめくる世界に”
そして、「生きる」という解説もなく、いつ終わるのかわからないまま進んでいく世界に戸惑いながら、ただ時間が過ぎていくことを「私」は感じます。
説明書のない「人生」という存在を表した表現になっています。
2番以降
今宵も鐘が鳴る方角は
Official髭男dism「アポトーシス」-作成:藤原聡
お祭りの後みたいに鎮まり返ってる
焦りを薄め合うように 私達は祈る
似た者同士の街の中
空っぽ同士の腕で今
躊躇いひとつもなくあなたを抱き寄せる
別れの時まで
ひと時だって愛しそびれないように
そう言い聞かすように
ここでは、後悔を残さないように全力で愛し合おうとする2人の様子が描かれています。
1番サビと説明が重なるところは省略していきます!
「死」に対する焦りから少しでも逃れようと、「私達」は願い続けます。
”躊躇いひとつもなくあなたを抱き寄せる”
そして、今この時を大切に生きるために、「私」は「あなた」を抱き寄せます。
「死」が訪れるその時まで、少しの時間も無駄にしないために。
そんな気持ちが歌われた歌詞が、”別れの時まで ひと時だって愛しそびれないように そう言い聞かすように”です。
訪れるべき時が来たもしその時は
Official髭男dism「アポトーシス」-作成:藤原聡
悲しまないでダーリン
もう朝になるね
やっと少しだけ眠れそうだよ
最後の歌詞です。「死」に対する恐怖を共有した「私」は、ようやく眠りにつくことができます。
”少しだけ”という歌詞から、やはりこの恐怖を完全に拭うことはできないことがわかります。
しかし、2人は愛し合い、日々を大切に歩んでいきます。「死」が訪れるその時まで、少しの時間も無駄にしないために。
これからも、別れが訪れるその瞬間まで、2人は愛し合いながら生きていくことがほのめかされ、本楽曲は終了です。
考察
「死」への恐怖を共有する2人
本楽曲では、「死」に対する恐怖を感じながらも、懸命に愛し合おうとする2人の様子が描かれていました。
負の感情の共有はいつも切なく、感動的です。いつか必ず死ぬという恐怖は解決のしようがなく、それこそ分かち合うしかありません。
「死」に対する数少ない救いの道を、2人は体現していると言えます。
また、本楽曲では「死」のことを「さよなら」「別れ」と表現している箇所があります。
「死」に対する恐怖は様々ですが、幸せな今が失われてしまうという「別れ」こそ、2人にとって最大の恐怖なのではないでしょうか。
2人のどちらが先に旅立ってしまうことになるのかはわかりません。先立ってしまうとしても取り残されるとしても、それらはお互いにとって非常に悲しい出来事です。
だからこそ、2人は最期の時まで愛し合い、共に生きていくのでしょう。「その時」が来るまで、少しでも幸せに生きるために。
我々には、終わりゆくものに儚さを感じ、それを美しいと思う価値観があるように思います。
散りゆく桜を見る時、打ちあがった花火が消えてゆくとき、そして命が終わる時。
終わりゆく2人の姿は、そういった儚さ、美しさを表現しており、それが聴く人を感動させるのではないでしょうか。
年老いた2人だからこそ「生」を感じる
本楽曲に描かれた「死」への恐怖は、等しく生きとし生けるものが感じるものだと思います。
しかし、一方でそれを実感するのは、多くの場合は命が終わりに近い時ではないでしょうか。
確かに我々も、「死」に対する恐怖を時折感じることはあるでしょう。しかし、「死」を感じるきっかけは、年を取るとともに比例して多くなっていくように思います。
2人は年をとったことで、より強く「死」を実感します。そんな2人だからこそ、「生」を歩む今が大切で、輝いて見えてきます。
本楽曲で描くテーマは「死」であると考えられますが、同時に本楽曲からは、愛し合う2人の確かな「生」を感じられるのではないでしょうか。
「別れ」は誰にでも怖く、誰にでも訪れる
本楽曲で描かれる「別れ」は、誰にでも訪れるものです。自分自身の死のほかに、大切な人の死によっても「別れ」は引き起こされます。
そんな別れは、いつ起こるかわかりません。
先の考察で、「年を取るほどに死を実感する」とは言いましたが、誰にだって突然「別れ」は起こりえます。それは50年後かもしれないし、明日かもしれません。
本楽曲では、「別れ」を実感するからこそ日常を大切に生きる2人の姿が描かれていましたが、そんな彼女たちの姿は、聴き手にも「日々を懸命に生きる大切さ」を伝えているのではないでしょうか。
余談にはなりますが、筆者がこの記事の中で用いた「2人」と「私達」という表現は、ある目的によって使い分けられています。
本楽曲で描かれたのは2人の姿ですが、1番サビとラストサビの一部に関しては、我々にも当てはまると言えると考えています。
そう考えた理由が、”似た者同士の街の中”という歌詞です。
”似た者同士「で」街の中”とすれば、歌詞が示すところは2人に限定されますが、”似た者同士「の」街の中”と言うと、まるで街に住む人が皆似た者同士であるかのような印象を受けます。
「死」への恐怖を感じる人すべてを指して、サビの一部は歌われているのではないかと筆者は考えました。
特に1番サビにあった、「死」をできるだけ考えないように生きるという気持ちは、多くの人に当てはまるのではないでしょうか。
そのため、そういった対象を指すと考えた表現については、「私達」という表記を使いました。
タイトルに込められた意味は、「命は巡る」?
確実に訪れる「死」を表現する「アポトーシス」というタイトルですが、実はもう一つ意味があると考えています。
それは、「生命が巡る」という世界の在り方を表している、というものです。
本楽曲のPVには、年老いた男女ともう一組、若い男女の様子が描かれます。
この表現には、若い彼らにもいずれ必ず「死」が訪れることを表すとともに、いずれは彼らが「死」を実感する立場に変わり、その時にはまた新しい命が生まれてくるという、生命のサイクルを表しているのではないでしょうか。
だからこそ、細胞が入れ替わる現象を指した「アポトーシス」という言葉をタイトルに用いたのではないかと思います。
筆者感想
まじでいい曲過ぎました。
初めて聴いた時にも感動したのですが、歌詞の意味を考えれば考えるほど感動が深まり、記事を書きながら泣いてしまいました。(まじで)
「いつか必ず死ぬ」という、もはや哲学的ともいえるこの世の心理を、老夫婦2人の生きざまを通して表現するという、天才的な歌詞だと感じました。
本楽曲の考察に、同感の意見も違った意見もあるかと思います。とにかく、この素晴らしい楽曲について、深く考えてみてほしい。その人なりの感動を持ってほしい。
他の楽曲でもそうですが、本楽曲の考察では、より強く感じました。
私も、日々を大切に生きていきたいと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
それでは(@^^)/~~~
コメント
ありがとうございます。
「拭き消した後で」は「ロウソクの火」を「吹き消した後で」ではないでしょうか。
コメントありがとうございます。
ご指摘いただいた通り、「吹き消した後で」が正しく、誤植をしておりました。
申し訳ありませんでした。
訂正させていただきました。