【歌詞の意味】RADWIMPS「うるうびと」のここがすごい!「生きる意味」を描いた、映画『余命10年』の主題歌

【歌詞の意味】RADWIMPS「うるうびと」のここがすごい!歌詞の意味

こんにちは!

今日は、RADWIMPSの「うるうびと」を徹底的に考察し、歌詞の意味を解説します!

映画『余命10年』の主題歌である本楽曲。

「余命」というどうしようもない運命を前に、愛する人との別れは必ずやってくる。

大きな悲しみがあろうとも、そこに「生きる意味」を見出した2人の姿に、涙が止まらない。

そんな本楽曲の魅力に、歌詞分析の観点から迫ります!

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映画『余命10年』の主題歌

本楽曲は3月4日に公開された映画『余命10年』の主題歌として書き下ろされました。

以下に、『余命10年』のあらすじをご紹介します!

20歳の茉莉は、不治の病で自分の余命を知り、恋をしないと心に決めていた。しかし、彼女は同窓会で自分の居場所を見失って生きることに迷っている和人と再会する。ひかれ合ったふたりは、思い出を増やしていくことに。しかし、彼らに残された時間は少なく……

https://amp.natalie.mu/eiga/film/187899 より引用(2022年3月8日閲覧)

同作品の原作となる小説は、2017年に発売され、「切なすぎる小説」としてSNSで話題になった作品です。

本楽曲は、主に和人の目線で描かれていると考えられます。

残された時間が迫る中で、日々を生きる茉莉。

彼女のために何かしてあげたい、しかし自分にはどうすることもできない。

そんな和人の葛藤のような感情が描かれた楽曲であると言えます。

そんな和人の気持ちに着目しながら、歌詞の意味を見ていきましょう!

歌詞の意味

1番

ホントみたいな嘘ばかり
頬張り続ける世界で
嘘みたいなホントばかり
抱えた君は窮屈そうに笑った

RADWIMPS「うるうびと」-作成:野田洋次郎
窓辺に置かれた花瓶

ここでは、険しい運命を背負った「君」についての気持ちが歌われています。

“ホントみたいな嘘ばかり”

“嘘みたいなホントばかり”

曲の出だしは、対比的な表現が使われています。

“ホントみたいな嘘”は、私たちが生きる世界にはびこる嘘のことを指します。

さも当然のように、嘘を吐き続ける人々。

「死にたい」とか「殺す」だとか、心の底から思っていっている人は多くないはずです。

もちろん、本当に追い詰められている人など、例外はあります。

しかし、だいたいの人が口にする「忙し過ぎて死ぬ」

…死にません。

死を実感していないからこそ出る、軽率な言葉。これが「嘘」です。

一方で対比されている“嘘みたいなホント”は、残された時間が少ない「君」という存在を指した言葉です。

我々が「死ぬ」だとか簡単に口にする一方で、「君」にとってその言葉は現実のものなのです。

いわゆる普通との乖離、これらの歌詞に描かれているのは、「嘘みたいに悲しい運命」を背負った「君」の姿なのです。

元気すぎるこの身体に
飽きた頃に熱が出ると
なぜか妙に嬉しくてさ
大きな声で母の元へと駆けた

RADWIMPS「うるうびと」-作成:野田洋次郎

ここでは、自分自身にも過去にあった「嘘」の経験が描かれています。

健康な「僕」にとって、たまに出る熱。それは、母親に心配してもらえる、なぜだか嬉しいイベントです。

こんな経験、子どものころにあった人も多いのではないでしょうか?

熱が出て苦しいはずなのに、なぜうれしいのか。それは、熱が出たからと言って、「僕」は死ぬわけではないからです。

死に対する実感がないともいえます。

多くの健康な人々は、死に対する実感がないからこそ、軽率にこんな行動が出来たりします。

対して「君」は、死が間近に迫っている存在です。

単に熱が出るよりもずっとつらい経験をしている「君」なら、「僕」のように喜んだりはしないでしょう。

なぜなら、彼女は死を実感しているから。

これらの歌詞には、「僕」自身にも「君」との乖離=嘘があった事が示されています。

心の色、形まるで違う
二つの魂が混ざった時
何が起こるかな

RADWIMPS「うるうびと」-作成:野田洋次郎

ここでは、上記の歌詞のように異なった2人が表現されています。

“心の色、形まるで違う”

2人には決定的に異なった点があります。

「君」には死がはっきりと見えており、「僕」には見えていません。

日々に対する感じ方も、2人の中で違うことでしょう。

そんな2人が愛し合った時、何かが変わるのでしょうか?

決定的に違う2人が共有する、「共に過ごす」時間。

映画にも描かれた、はかなくも美しい時間がこの歌詞で表現されています。

あといくつ心臓があれば
僕は君の手を掴んで
この胸の中に攫(さら)えるだろう
今や人類はこの地球を飛び出し
火星を目指す
なのに僕は20センチ先の
君の方が遠い

RADWIMPS「うるうびと」-作成:野田洋次郎

ここでは、「君」を助けたいけれどもどうすることも出来ない「僕」の気持ちが描かれています。

“あといくつ心臓があれば
僕は君の手を掴んで
この胸の中に攫(さら)えるだろう”

どんなに願ったところで、どんなに心臓を集めたところで、「君」を救うことはできません。

何をしたところで、「君」を「僕」の胸の中=死が間近にない「僕」が生きる世界に引き込むことはできません。

“なのに僕は20センチ先の
君の方が遠い”

今や人類は、遠く離れた火星へと旅立とうとしています。

それでも「僕」は、「君」に近づくことができません。

どんなに近づこうとしても、やがて「君」はいなくなってしまいます。

物理的には触れることができても、決して捕まえることができない「君の死」という現実。

これらの歌詞には、「君」のためにどうすることもできない「僕」の苦しみが描かれています。

2番

小さすぎるその背中に
大きすぎる運命背負い
「僕も持つよ」と手貸そうにも
この手すり抜け 主の元へと帰る

RADWIMPS「うるうびと」-作成:野田洋次郎
教会で祈る人

ここでも、「君」を助けられない「僕」の気持ちが歌われています。

「君」の小さな体、そこには必ず死ぬという、身体に有り余る大きすぎる運命がのしかかっています。

“「僕も持つよ」と手貸そうにも
この手すり抜け 主の元へと帰る”

できることなら、「僕」もその大きすぎる運命を半分背負ってあげたい。

しかし、そんな願いもむなしく「君」の命は主=神様のもとへと帰ってしまいます。

「死」という抗えない運命の前に、「僕」はあまりにも無力です。

目を離したらすぐにまた
いびきをかきはじめる僕の
細胞起こしたのは

RADWIMPS「うるうびと」-作成:野田洋次郎

ここでは、「僕」の価値観を変えた「君」という存在について描かれています。

“目を離したら”という歌詞は、生きているというありがたみを忘れてしまう「僕」のことを表した歌詞です。

死を実感していないからこそ、毎日を空虚に、だらだらと過ごしてしまう。

そんな「僕」を変えたのが、「君」という存在です。

「君」と出会ったことで「僕」は、当たり前のように生きてきた毎日を、初めて意識するようになったのです。

あといくつ心臓があれば
君にこの気持ちを
過不足なく僕は伝えられるのだろう
今や人類を超える知能が生まれているのに
僕の言葉は足踏みをただ繰り返す

RADWIMPS「うるうびと」-作成:野田洋次郎

ここでは、「君」に思いを伝えられない「僕」の気持ちが表現されています。

“あといくつ心臓があれば
君にこの気持ちを
過不足なく僕は伝えられるのだろう”

「僕」の想いの全てを「君」に伝えるには、あまりに時間が少なすぎます。

終わりが見えているからこそ、後悔のないように想いを伝えたい。

しかし、それはきっと不可能です。

そもそも人にとって、すべてを伝えることなどできないのかもしれません。

多くの人は終わりが見えていないからこそ、ゆっくりと時間をかけて、相手に思いを伝えようとします。

どんなに人工知能が発達しようとも、死にゆく「君」にすべてを伝える言葉など、見つかりっこないのです。

2番以降

全人類から10分ずつだけ寿命をもらい
君の中どうにか埋め込めやしないのかい
それか僕の残りの命を二等分して
かたっぽをあなたに渡せやしないのかい
そしたら「せ一の」で
来世に乗れる

RADWIMPS「うるうびと」-作成:野田洋次郎
膝まずいて祈りをささげる男性

ここでは、叶うはずもない願いにすがる「僕」の気持ちが表現されています。

全人類から少しずつ時間をもらうとか、「僕」の寿命をあげるとか、なんとか方法はないものか。

非現実的な願いですが、「君」を大切に思うからこそ、そして「君」の運命があまりに救いようがないからこそ、「僕」はこんなことを考えてしまいます。

あといくつ心臓があれば
僕は君の手を掴んで
この胸の中に攫(さら)えるだろう
今や人類はこの地球を飛び出し
火星を目指す
だけど僕は20センチ先の
君だけを目指す
この一つの心臓が声の限りに叫ぶよ
「あなたは私がこの世界に生きた
意味でした」

RADWIMPS「うるうびと」-作成:野田洋次郎

1番と重なる部分の解説は省略します。

“「あなたは私がこの世界に生きた
意味でした」”

この歌詞では、「私」という新しい一人称が使われていますね。

「僕」と「君」、どちらが言ったとも取れるセリフになっています。

「生きた」という過去形の形から、死ぬ間際に「君」が思ったこととも取れますし、2人ともが同じ思いを持っていた、という解釈も素敵です。

ともかく、2人は確かに愛し合っていたのです。

2人の美しい愛情が描かれて、本楽曲は終了です。

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考察

「死」に対する実感

落ち葉の上にたたずむ墓

本楽曲の優れている点として、「一般的な死に対する価値観」が描かれていたことがあげられます。

“ホントみたいな嘘” “元気すぎるこの身体に”に続く歌詞のような部分ですね。

多くの人は、死を実感していないからこその言動をとることがあります。

軽々しく「死ぬ」と言ったり、熱が出て喜んだり。

本楽曲ではそういった言動を「嘘」と表現しており、「僕」自身もまた嘘にまみれた人物でした。

このような一般論が描かれているからこそ、「死」を強く実感する「君」という存在が際立ちます。

健康体の人にとって、「君」の感じている世界は理解することが難しいです。

当たり前のように感じる、「生きる」という意味。

本楽曲に描かれていたのは、愛する人の死を通して感じた、「生」への感謝の気持ちだったのではないでしょうか。

困難を乗り越え愛し合う2人

先ほどの考察でも触れましたが、多くの人にとって「生きる」ということは当たり前になってしまっています。

というより、私たちはそもそも、「死」という避けられない事実から目を背けているのかもしれません。

決定的に違う、「君」と「僕」。

2人は愛し合うことで、より辛いこともあったでしょう。

出会わなければ、お互いに「別れ」という悲しみを感じなくて済んだのかもしれません。

それでも2人は、“「あなたは私がこの世界に生きた意味でした」”と感じています。

悲しみを感じてでもつかみ取った、「生きる意味」という喜び

2人は困難を乗り越え、強い愛情のもと結ばれていたのです。

タイトルに込められた意味

「うるう」のもともとの意味は、「うるう年」などに使われるように、「平年よりも月数や日数が多いこと」を指します。

つまり「うるう」という言葉は、「通常の状態に何かをプラスする作用がある」と解釈できます。

この視点で考えると、「うるうびと」は「君」のことを指しているのではないかと考えられます。

死を実感していないからこそ、「生きる意味」をいまいち見いだせなかった「僕」。

そんな「僕」を変えたのが、「君」という存在でした。

「うるう」という言葉の定義に当てはめれば、

平年=
「君」と出会う前に思い描いていた「僕」の人生

と考えることができます。

そこに、「生きる意味」を与えてくれた「君」。

「君」と出会えたからこそ、「僕」は明日を生きることができるのです。

「生きる意味」を失っていた「僕」に次の一日を与えてくれた「君」。

これを、例年にプラス1日加える「うるう年」に例えた表現が、タイトルに用いられたのだと考えられます。

筆者の感想

涙腺ゆるゆる気味の筆者には、まーた刺さる楽曲でした…

愛する人との別れ、普段意識しませんが、考えてみれば至極当たり前にそこにあります。

本楽曲では余命という形で強く実感することができましたが、愛する人との別れは、すべての人にやってくる可能性があります。

当たり前のように過ごす毎日ですが、大切に生きていかなくちゃな…

と思わせる楽曲でした。

この記事の感想やご意見など、是非コメント欄までお待ちしております!
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
それでは(@^^)/~~~

 

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