こんにちは!
今日は、星野源の「喜劇」を徹底的に考察し、歌詞の意味を解説します!
結婚、それは赤の他人と「家族」になるということ。
星野源が描く家族像に、暖かい気持ちになれること間違いなし。
そんな本楽曲の魅力に、歌詞分析の観点から迫っていきます!
✔星野源が描く「家族像」とは?
✔他人から家族になるということの意味
✔人によって「私」という人物の捉え方が変わる
アニメ『SPY×FAMILY』のED曲
本楽曲は、テレビ東京より放送されているアニメ『SPY×FAMILY』のED曲として書き下ろされました。
『SPY×FAMILY』は、スパイである黄昏が、殺し屋であるヨル、超能力を持つ子どもアーニャの3人と、任務のために「かりそめの家族」を作り、ミッションに挑んでいくというアクションコメディーです。

少し歪な家族関係の中で繰り広げられる日常が何とも面白おかしく、クスっと笑えながらも、シリアスなシーンも楽しめるとして話題の同作品。
本楽曲の作成にあたって星野源は、次のようにコメントしています。
「家族をテーマに」と、制作の方にメッセージをいただいたので、物語が持つ家族感を意識しながら、自分の考える家族像を歌にしました。以前、同じテーマで「Family Song」という楽曲を作ったことがありましたが、今回の「喜劇」という楽曲では、また全く違うものができたと思います。
https://spy-family.net/music/music_ed.php より引用
物語世界で表現された少し歪な家族の姿から、星野源が思う家族像をテーマとした楽曲になっているようです。
彼が描いた家族像とは、いったいどんなものだったのか。
それでは、歌詞の意味を見ていきましょう!
歌詞の意味
1番
争い合って壊れかかった
星野源「喜劇」-作成:星野源
このお茶目な星で
生まれ落ちた日から よそ者
涙枯れ果てた
帰りゆく場所は夢の中

ここでは、私たちが暮らす世界について語られています。
お互いに貶め合うことで成り立つこの世界。
受験競争、出世争い。基本的に、誰かとの争いが絶えません。
そんな世界のことを、「私」は“お茶目な星”と表現しています。
“生まれ落ちた日から よそ者”
どんなに親しい人だとしても、それこそ家族すらも「他人」である私たち。
この世に生まれた瞬間から、私たちは1人でこの争いに向かっていかなければなりません。
“涙枯れ果てた
帰りゆく場所は夢の中”
繰り返される争いの日々、人は皆疲れ果てて家に帰ります。
1日の疲労から涙も枯れたころ、ようやく私たちは眠りにつくことができます。
これらの歌詞には、私たちが生まれたその日から確定している、生きていくうえでの苦悩が表現されています。
零れ落ちた 先で出会った
星野源「喜劇」-作成:星野源
ただ秘密を抱え
普通のふりをした あなたと
探し諦めた
私の居場所は作るものだった
あの日交わした
血に勝るもの
心たちの契約を
ここでは、そんな苦悩の日々の中で出会った「君」という存在について描かれています。
涙、涙を繰り返す日々の先であったのは、今後生涯を共にするであろう「君」という存在でした。
“ただ秘密を抱え
普通のふりをした あなたと”
これは、アニメ世界観を反映した歌詞です。
スパイとか殺し屋とか、お互いに大きすぎる秘密を抱えている2人。
世間に溶け込もうと、精一杯「普通」のふりをします。
そしてこれは、私達にも当てはまります。
他人に打ち明けられない、理解してもらえないであろう感情や考え方。
誰しも1つや2つくらいの秘密を抱える中で、社会からはみ出さないように私たちは慎重に生きています。
“探し諦めた
私の居場所は作るものだった”
そんな秘密を抱えていると、そうそう心安らぐ場所なんかありません。
しかしながら、唯一私達には、そんな心を癒してくれる居場所があります。
それが、本楽曲のテーマでもある「家族」です。
居場所はどこかにあるものではなく、自分自身で作るものだと「私」は言います。
“血に勝るもの
心たちの契約を”
そんな居場所を作る=家族を作る方法である結婚。
血のつながっていない他人同士が結ぶ結婚という契約は、血のつながりにも勝る「心の契約」なのです。
手を繋ぎ帰ろうか
星野源「喜劇」-作成:星野源
今日は何食べようか
「こんなことがあった」って
君と話したかったんだ
いつの日も 君となら喜劇よ
踊る軌むベッドで
笑い転げたままで
ふざけた生活はつづくさ

ここでは、「君」と過ごす日々の幸せについて描かれています。
“手を繋ぎ帰ろうか
今日は何食べようか”
辛いこともある日々の中、家に向かう時間は心が休まります。
手をつなぎながら、今日の献立や1日の話をして帰路につく。
たわいもない毎日が、疲れた「私」の心を癒していきます。
そして、苦悩の続く人生だとしても、「君」といればそれは面白おかしい笑い話=喜劇になると「私」は思います。
“踊る軌むベッドで
笑い転げたままで”
くだらない話で盛り上がり、笑い転げる2人。
この場面は、冒頭にあった“涙枯れ果てた 帰りゆく場所は夢の中”という歌詞と対比的ですね。
寝るという行為に対して、
1人の時
涙も枯れるほど疲れ切って、眠りの世界に落ちていく
「君」といる時
じゃれ合いながら過ごす、笑いの溢れる時間
このように、「君」といることで眠りにつく時間に明確な変化が出ています。
これらの歌詞には、「君」と出会ったことで苦悩の毎日に変化があった「私」の様子が描かれています。
幸せで面白おかしい、「喜劇」とも呼べる2人のふざけた生活は、これからも続いていくのです。
2番
劣ってると言われ育った
星野源「喜劇」-作成:星野源
このいかれた星で
普通のふりをして気づいた
誰が決めつけた
私の光はただ此処にあった
あの日ほどけた
淡い呪いに
心からのさよならを

ここでも、1番と同じように、この世界で生きる苦悩が描かれています。
争いの繰り返される中で、常にだれかと比べられ、“劣っている”と言われるこの世界。
直接言われなくても、テストの点数、営業成績と、様々な情報によって私たちは劣っているという事実を突きつけられます。
“普通のふりをして気づいた
誰が決めつけた
私の光はただ此処にあった”
こんなお茶目でいかれた星の中、私たちは「普通のふり」をして生きています。
誰が決めたのかすらわからない普通。
それに甘んじて生きていく中で、「私」は自分自身の心が休まる場所=「君」という光に気が付いたのです。
“淡い呪いに
心からのさよならを”
普通、『淡い』に続くのは『期待』などの言葉です。
1番にもあった、“私の居場所は作るものだった”という気づき。
つまり「私」は、「世界のどこかに居場所がある」と思い込んでいたのです。
しかし実際には、居場所は見つけるものではなく、作るものでした。
「居場所がある」という妄想にも似た期待のことを、侮蔑の意味を込めて「呪い」と表現していると考えられます。
そして「君」と出会った今、そんな「呪い」とはおさらばです。
顔上げて帰ろうか
星野源「喜劇」-作成:星野源
咲き誇る花々
「こんな椅麗なんだ」って
君と話したかったんだ
どんな日も 君といる奇跡を
命繋ぐキッチンで
伝えきれないままで
ふざけた生活はつづく
ここでも、「君」と過ごす日々の幸せについて描かれています。
2人で道に咲く花々を見ながら、「綺麗だね」と言い合って帰る。
些細な日常の出来事でも、「私」は「君」に話したいと感じます。
“命繋ぐキッチンで
伝えきれないままで”
ここでは、「君」がキッチンに立つのか、「私」がキッチンに立つのか明示されていません。
聴き手にゆだねられることになっています。これについて詳しくは、【考察:「私」はどのような人物なのか】で述べます。
ともかく、どちらかが作る夕食。
「お仕事お疲れさま、いつもありがとう。」
「いつもおいしいご飯をありがとう。」
どんな気持ちかは聴き手にゆだねられますが、「私」には相手に伝えたいであろう気持ちがあります。
しかし、普段から伝えることはできません。
「君」がいるというありがたみ、しかしそれを伝えることはなかなかできない。
そんなふざけた生活は、これからも続いていきます。
2番以降
仕事明けに 歩む共に
星野源「喜劇」-作成:星野源
朝陽が登るわ ああ
ありがとうでは
足りないから 手を繋ぎ

ここでは、「君」への感謝の気持ちが表現されています。
仕事明けに見える朝日というのは、アニメ世界を反映させた歌詞でもあります。
スパイも殺し屋も、本領を発揮するのは夜のイメージですよね。
現実世界でいえば、夜勤明けといったところでしょうか。
“ありがとうでは
足りないから 手を繋ぎ”
ここでも、「私」の人物像をどう感じるかによって感謝の内容が変わります。
「お仕事ありがとう」
「わざわざ迎えに来てくれてありがとう」
こんな気持ちを「私」は持ていますが、言葉では言い表せないほどの感謝が「君」にあります。
だからこそ、ありがとうの代わりに「私」は「君」とそっと手をつなぐのです。
さあうちに帰ろうか
星野源「喜劇」-作成:星野源
今日は何食べようか
「こんなことがあった」って
君と話したかったんだ
いつの日も 君となら喜劇よ
踊る軌むベッドで
笑い転げたままで
前の歌詞と同じ内容のため省略します!
永遠を探そうか
星野源「喜劇」-作成:星野源
できるだけ暮らそうか
どんなことがあったって
君と話したかったんだ
いつまでも 君となら喜劇よ
分かち合えた日々に
笑い転げた先に
ふざけた生活はつづくさ
ここでは、「君」と過ごす日々がこれからも続いて欲しいという気持ちが描かれています。
出来るだけ「君」と長く一緒にいたいと「私」は考えます。
嬉しいことも悲しいことも、すべてを「私」は「君」に話したいのです。
“分かち合えた日々に
笑い転げた先に”
苦悩の毎日でも、「君」となら分かち合える。
笑って過ごす、喜劇にできる。
「君」とのふざけた生活はこれからも続いていくことが示されて、本楽曲は終了です。
考察
「私」はどのような人物なのか

本楽曲では一貫して「私」が感じている、「君」と出会えたことに対する喜びと、「君」への感謝の気持ちが描かれていました。
では、そんな「私」は、どのような人物像になっているのでしょうか。
性別は?働き手か、主婦なのか?はたまた、家事をしながら働いているのか?
実は、本楽曲においてそれは具体的に明示されていません。
主語は「私」、対人物は「君」と、それぞれ男女どちらとも取れるようになっています。
歌詞全体に関しても、「私」は働いているのか、はたまた主婦として家事などをしているのか、聴き手が想像する「私」の姿によってだいぶ印象が変わってきます。
厳密には“朝陽が登るわ”という歌詞や、キッチンの描写などがあることから「女性の主婦」が「私」の人物像として有力にも感じますが、ここも解釈によってなんとでも説明が付きます。
本楽曲は、聴き手が実際に置かれている状況や、将来こんな家庭を持ちたいと思う願望によって、ひとりひとり見え方が変わってくるのではないでしょうか。
聴き手は、自分自身の想像と「私」の姿を重ねて本楽曲を味わうことができます。
そして、「私」をどのような人物であるととらえても一貫して感じることができるのが、最初にも述べた「君」と出会えたことに対する喜びと、「君」への感謝の気持ちなのです。
聴き手にゆだねられる想像の余地と、一貫したメッセージ性のバランス。
これこそが、本楽曲の魅力であると言えるのではないでしょうか。
他人から家族になる様子が描かれた楽曲
本楽曲で描かれた「家族」は、子どもが生まれて~といったものというより、「結婚」そのものに着目したものでした。
楽曲でも描かれていたように、人は基本的に、生まれた瞬間からすべての人類と「他人」になります。
そんな「他人」の中で、自分が選んだ相手と結ぶ強いつながりこそ「結婚」です。
血はつながっていないはずなのに、他のどのつながりにも勝りうる強いつながり。
本楽曲で描きたかったのは、そんな「他人から家族になるということ」だったのではないでしょうか。
本楽曲には、2人の子どもが登場しません。
子どもは両親と血のつながりのある、少し特別な存在ですからね。
血のつながりすらも超えた心のつながりを表現したかったからこそ、子どもは登場させなかったのではないかと考えられます。
子どもを含んだ「家族」の歌でもなく、かといってラブソングとも言い切れず。
「家族」をテーマにした歌として、他とはまた違った「家族になる」という様子に着目した本楽曲は、他とは一線を画しながらも、「家族」の温かさを感じられる楽曲に仕上がっているのではないかと感じました。
筆者の感想
物語世界を随所に反映させながらも、しっかりと万人に共感される歌詞構成。
筆者は「私」を働く女性、「君」を専業主婦の夫として聴きました。
もちろん、これが正解とかではなく、いろんな捉え方で聴くことができるでしょう。
他の人と曲の感想で盛り上がれるような、巧みな構成になっていたと思います。
「家族」と聞くと子供のイメージを持ちがちでしたが、「結婚」という形での家族を描いた点についても、他とは一線を画す面白い工夫だと感じました。
私もいつか結婚すると、よりこの楽曲がしみるのかもしれませんね…
この記事の感想やご意見など、是非コメント欄までお待ちしております!
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
それでは(@^^)/~~~
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