こんにちは!
今日はAdoの「うっせぇわ」を考察していきます!
「うっせぇわ」と言えば、昨年度の10月にリリースされて以降、瞬く間にAdoの名を日本中にとどろかせた楽曲ですよね。当時の筆者も、ものすごい衝撃を受けたのを覚えています。今もなお、破竹の勢いで人気急上昇中のAdoですが、そんな彼女のメジャーデビュー作とも呼べる本楽曲の魅力に、歌詞分析の観点から迫っていきます!
はじめに
本楽曲を聴いた時の筆者の感想は、「すげえ上から目線やん・・・」でした(笑)
曲を聴いていると、どうやら「私」は社会人、それもまだかなり若い人ということがわかります。しかし、彼女が歌う本楽曲の中には、「思春期かよ・・・」と思わせるような言動や感情が多く見られました。
これは別に、Adoを批判したくて言ってるわけではないですよ!本楽曲の歌詞は事実として、アーティストの価値観を押し付けてくるような、高圧的な表現が多く用いられています。「おめえら何もかってねえんだよ!」と、社会に対して物申すような楽曲です。・・・言い換えれば、口が悪いです(笑)
しかし、このような高圧的な表現が多くの人の関心を集め、実際に「うっせぇわ」を大人気楽曲へと押し上げました。なぜ、このような結果になったのでしょうか。
その理由は、多くの若き社会人が感じる、「社会に対する不満」が本楽曲では歌われており、これに多くの人が共感したからであると筆者は考えています。
現代の若者は、閉鎖的、消極的で、自分の考えを口にしないと言われがちです。しかし、若者達はその実、「言わない」というより、「言えない」のが本当のところではないでしょうか。多くの若者は、凝り固まった社会のルールに身を投じ、不満を持ちながらも耐えている、というのが現状のように感じます。
実際に、社会のルールや、周りの大人(上司など)が口にする「あたりまえ」に異議を唱えたり、疑問に思っている若者も多くいることでしょう。
そんな社会の決めた「あたりまえ」に対して、「うっせぇわ」と若者の気持ちを代弁しているのが本楽曲です。
そして、本楽曲で歌われている感情や考え方は、実は誰もが経験する、ある時期によく現れる感情でもあります。それこそ、「思春期」です。
本楽曲では、まるで社会人とは思えない、思春期の少年少女の様な感情が多く歌われています。聴く人によっては、共感性羞恥が働き、恥ずかしくなることもあるかもしれません。
しかし、そんなまるで思春期の少年少女の様な表現が用いられてるからこそ、本楽曲は多くの若者から共感され、人気曲になったのだと筆者は考えました。
言いたいけど、「もう大人だから」と思って言えない。そんな若者達の本音を、若さの象徴とも言える「思春期的な考え方や表現」を用いることによって、社会に叫んでいるのです。
実際にこの楽曲を聴いて、「思春期かよ!!」とツッコミを入れた人も多くいるようです。しかしその一方で、多くの若者は、この楽曲こそが自分たちの本音であると感じて、共感しているのです。
この「社会に対する不満」と、「思春期の様な表現」に注目しながら、歌詞分析を進めていきたいと思います!
歌詞分析
正しさとは 愚かさとは
それが何か見せつけてやる
Ado「うっせぇわ」
いきなり、衝撃的なスタートを切っていますね・・・
「正しさとは 愚かさとは それが何か見せつけてやる」とは、非常に大仰な言いぐさです。「正しさと愚かさ」の対象は示されておらず、すごく大きな風呂敷で、「今からてめえらに、正しさとは何か、愚かさとは何か教えてやるよ。」と言っています。まさに、社会に対する宣戦布告と言えます。
この歌詞からいきなり、本楽曲における歌い手の立場が示されているような表現になっています。
ちっちゃな頃から優等生 気づいたら大人になっていた
ナイフの様な思考回路 持ち合わせる訳もなく
でも遊び足りない 何か足りない
困っちまうこれは誰かのせい
あてもなくただ混乱するエイデイ
それもそっか
Ado「うっせぇわ」
この部分では、幼い頃から優等生であった私の本音が描かれています。
自分には、「ナイフの様な思考回路」のように、何か特別な才能があるわけでもありません。でも、遊び足りない。特別な存在でいたい。好きに生きたい。こんな風に困っているのは、自分以外の誰かのせいだ。このように、自己中心的な感情は、まさに思春期を思わせる表現であると言えます。
だからこそ、「あてもなくただ混乱するエイデイ」なのです。(エイデイは恐らく、「エブリデイ」をもじった言葉でしょう。)自分にとって、思うように日々が進まない。次のパートでは、そうなってしまっている理由が述べられていきます。
最新の流行は当然の把握
経済の動向も通勤時チェック
純情な精神で入社しワーク
社会人じゃ当然のルールです
Ado「うっせぇわ」
これらが、「私」を困らせている要因です。主に、社会が作り上げた「あたりまえ」に対する不満ですね。そういった社会の「あたりまえ」は、周りの人間が勝手に作り上げたルールです。
こういった、自分が好き好んで守っているわけでもないルールに従い続ける煩わしさこそ、「私」を困らせている要因なのです。
はあ?うっせえ うっせえ うっせえわ
あなたが思うより健康です
一切合切凡庸な あなたじゃ分からないかもね
嗚呼よく似合う その可もなく不可もないメロディー
うっせえうっせえうっせえわ
頭の出来が違うので 問題はナシ
Ado「うっせぇわ」
前述したような、誰かが勝手に作り上げた「あたりまえ」に対して、「うっせえわ」と物申しています。職場の上司等は、「ああしなさい、こうしなさい」と口うるさいですが、そんなの余計なお世話。「私」は、「あなたが思うより健康」なのです。「周りにとやかく言われなくても、ひとりで生きていけるわ!」といった、社会にうんざりしている若者の本音が表現されています。
そうして、こんな私を認めてくれないであろう人たちを、「凡庸」と非難しているのです。「可もなく不可もなく」がお似合いのやつらには、「私」の崇高な考え方など理解できないのです。それこそ「私」は、「頭の出来が違う」のですから。
ここも、面白い表現ですよね。先のパートでは、「ナイフの様な思考回路 持ち合わせる訳もなく」と言っていたのに、今は「頭の出来が違う」と言っています。こういった曖昧な表現も、思春期を思わせる表現の一つと言えます。
つっても私模範人間 殴ったりするのはノーセンキュー
だったら言葉の銃口を その頭に突きつけて撃てば
マジヤバない?止まれやしない 不平不満垂れて成れの果て
サディスティックに変貌する精神 クソだりいな
Ado「うっせぇわ」
この部分でも、社会に対する不満が見て取れます。「私」は平和的なので、暴力では現状を改善しません。ちゃんと、正論(と、「私」が思っていること)を上司にぶつけてみます。(実際は、頭の中でぶつけているだけかもしれません。)自分で正論だと思っているからこそ、「言葉の銃口」なんて表現をしています。
するとどうでしょう!上司からの反論が出るわ出るわ!そんな大人の姿を、「サディスティックに変貌する精神」と揶揄しています。
これも、おおよそ社会人とは思えない様な言い草ですね。近いものとして、思春期の経験の中に、このような覚えのある人もいるのではないでしょうか?先生に口答えして、怒られた後に「あいつマジだりーわ。」と友達に愚痴を漏らした経験です。自分では経験なくても、同級生などのそういった姿を見た人も多いと思います。これも、まるで思春期の様な表現と言えるでしょう。
酒が空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい
皆がつまみ易いように串外しなさい
会計や注文は先陣を切る
不文律最低限のマナーです
Ado「うっせぇわ」
ここも1番と同じように、「あたりまえ」に対する不満が表現されています。大まかな分析内容は1番と同じであるため、詳しくは省略します!
はあ?うっせえ うっせえ うっせえわ
くせえ口塞げや限界です
絶対絶対現代の 代弁者は私やろがい
もう見飽きたわ 二番煎じ言い換えのパロディ
うっせえうっせえうせえわ
丸々と肉付いたその 顔面にバツ
Ado「うっせぇわ」
ここも1番と同じような、上司等に対する不満が表れています。この部分ではどちらかというと、悪口のようになっていますね(笑)
でも、こういった気持ちも我々は思春期で経験済みであるはずです。「あいつ口くせえんだよ。」「んだあのデブ先公」ちょっと口が悪すぎる気もしますが、このようなニュアンスの悪口を、陰でいっていた経験はあるのではないでしょうか。このあたりも非常に共感性が高く、そう言ってしまう気持ちもよくわかります。
こんな悪口の塊のような歌詞も、まさに若者の気持ちを代弁している表現である、と言えるのではないでしょうか。
うっせえ うっせえ うっせえわ
うっせえ うっせえ うっせえわ
あたしが俗に言う天才です
うっせえ うっせえ うっせえわ
あなたが思うより健康です
一切合切凡庸な あなたじゃ分からないかもね
嗚呼つまらねえ 何回聞かせるんだそのメモリー
うっせえうっせえうっせえわ
あたしも大概だけど
どうだっていいぜ問題はナシ
Ado「うっせぇわ」
ここでも一貫して、社会に対する不満です。「何回聞かせるんだそのメモリー」は、上司にありがちな「俺らの若いころはな・・・」の様な話のことでしょうか。もしくは、業務上の口うるさい注意や、もっと大きく、上司の語ってくる全ての言葉を指しているのかもしれません。とりあえず、その「メモリー」には飽き飽きしているようです。
「あたしも大概だけど」には、この若者の本音がちらっと見えますね。実際のところ、これらの不満が若者の戯言であることも、心のどこかではわかっているのかもしれません。でも、そんなのどうだっていい。こんなふうに自己に都合の悪い事柄を無視して考えてしまう感情も、社会人らしいとは言えず、思春期のような表現であると言えます。
考察
口が悪い・・・だからこそ、「共感」できる
ここまで歌詞分析をしてきた中で、改めて見ても非常に口が悪かったですね(笑)
実際に、本楽曲の表現は不適切なものが多く、教育上よくないという議論もありましたね。
しかし、こういった感じ方って、若かりし頃に多くの人が経験しているのではないでしょうか。口にはしなくても、心のどこかで思っていた、という人も含めると、本当にほとんどの人が経験しうる体験だと思います。(もちろん、全日本国民がその限りではないとは思います。だからこそ、本楽曲の評価の中には、過激なものもあるのかもしれませんね。)
こういった口の悪い表現は、言い換えればストレートに感情を表現した言葉でもあります。だからこそ、本楽曲の歌う感情が、聴き手にダイレクトに伝わり、高い共感性を持つのかもしれません。これこそが、本楽曲が多くの人に支持される理由の一つであると言えるでしょう。
まるで思春期!?のような表現の数々
本楽曲には、歌詞分析で示した通り、おおよそ社会人とは思えない、思春期の子供の様な感情が多く表現されています。
こういった感情は、誰もが経験する感情であるとともに、特に若者にとっては、口にすることは流石に無いながらも、心のどこかで思ってしまう感情なのではないでしょうか?だからこそ、本楽曲は若い世代を中心に、非常に人気の楽曲である、と言えます。
前述した「口の悪さ」、これも一つの思春期のような表現であると言えますね。
他には、「世の中をわかりきったような表現」も、思春期のような表現と言えます。
例えば、「正しさとは 愚かさとは それが何か見せつけてやる」という歌詞。前述で、「大仰である」と筆者は述べました。この表現は、聴き手に対して偉そうにしている印象を与えます。
これが思春期の少年少女が言ったセリフだと、「思春期ってそんなものだよね。」と、聴き手も感じることでしょう。自分が一番正しく、周りの人間、特に大人たちは何もわかっていない。口に出してみると少し恥ずかしいですが、実際のところ、こういった考え方をしていた人もいるのではないでしょうか?(恥ずかしながら、私もそうでした・・・)
しかし、この楽曲の「私」は社会人です。この曲を聴いて、何となく「中二病」くさくて、聴いてて恥ずかしくなる、という印象を持った人もいるかもしれません。それほどまでにリアルな「思春期のような考え方」が反映されているのも、この曲の共感性にかかわってくる大事な要素であると思います。
また、「強がり表現」も、思春期のような表現として挙げられます。
本楽曲では、自分のことを「優等生」「頭の出来が違う」「天才」と表現したり、かなり自信にあふれた表現が多く使われています。また、他の人を「凡庸」「可もなく不可もない」と、見下したような表現も見られます。こういった強がりともいえる感情も、自己のアイデンティティーを探す思春期においては、よくあるものであると言えます。
こういった強がりもまた、思春期のような感情ですよね。
こういった思春期のような表現が織り交ぜられていることによって、本楽曲が伝えたいところが、一貫して聴き手に伝わっていくのではないでしょうか。
感想
本楽曲の考察を進めるうちに、自分の中高生のことを思い出して、はずかしくなってしまいました(笑)
でも、それほどまでに本楽曲の歌詞が作りこまれていて、高い共感性を持つのではないか、とも思えます。「Pretender」の考察でも述べましたが、共感性の高い歌は自己を重ね合わせながら聴くことができるので、聴いていて非常に想像力を掻き立てられます。
↓「Pretender」の考察はこちらをご覧ください!↓
「Pretender」では抽象的な表現が多用されていましたが、本楽曲はかなり具体的に、不満を持っている事柄が述べられていました。具体的な表現の中でも、「誰しもが経験しうる事柄」については、共感性を保つことができるんだなと、新たに発見することができました。
Ado、これからもますます期待のアーティストですね!
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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それでは( ^^) _U~~
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